友人のメール四日目
05 05, 2012

昨日(5/4)の活動報告です。
5/1から5/3の昼まで仕事をして、福島に戻りました。5/3の20時頃、新幹線で福島駅に到着し、トヨタレンタカーで2トントラックを借りてどしゃ降りのなか南相馬市へ。
トラックを前回1トンだったのを2トンに変更しました。これは、より被災地での活動守備範囲を広げる意味もありますが、GW でボランティアがたくさんセンターに来たために宿泊所が一杯になってしまい、車中泊しなければならなくなり、少しでも運転席の広い車にしたかったためでした。
5/4朝5:30起床。センターに行くには少し早かったので、警戒区域が解除された小高区(おだかく)に行ってみることにしました。
震災後、時間が止まっていると言われている小高区は、それまでいた原町区や鹿島区とはまるで違う世界にいるようでした。海側では一面に広がるたんぼのあちこちに津波で流されてきた車がひっくり返っており、内陸側では、全半壊した家屋が目に入ります。
昨年3/11の地震後、すぐに津波が町が襲い、原発が爆発して住民は、町から避難を強いられたのです。
まさに震災から時間が止まっているようでした。
新たな警戒区域である浪江町の境界まで車を走らせました。警察の方々がバリケードを張って、それ以上入れません。警察の方と話をすると長崎から来ているとのことでした。
8時にセンターに行き、8:30からマッチングが始まりました。地元の要望に対して、誰をどこに行かせるか決める作業です。約60人のボランティアがセンター長を囲み、地元要望の内容を聞きます。5件ほどあった案件はすべて小高区のものでした。ボランティアが多いうちに、少しでも小高を救いたいというセンター前の意気込みを感じます。
私は、佐藤さんというお宅の家屋の壁剥がし及び泥だらけになった家具の搬出作業で15人でのチームに加えて頂きました。メンバーの中に夫婦で来られているのが2組、そしてなんと11歳の女の子を連れて来られた家族がいました。聞けば、山口県から車で来ていて、言い出したのは女の子だそうです。女の子の通う小学校に、災害支援で被災地に行った消防隊員が来て話を聞き、ボランティアがしたいと思ったとのことでした。
この女の子にも驚きましたが、放射能が残るこの福島(実際、南相馬は大した数値ではない)で小学校6年生の娘を
つれてきた親にも感動です。
佐藤さんのお宅に着き、早速作業開始。私はバールで壁のコンパネを剥がす作業と、精米機の一部撤去を担当しました。
ご主人(65歳くらい)いわく、排水施設が破壊し、たんぼは水びたしで、防潮堤の改築は何年もかかり、施設が整備されたとしても、風評被害で、自分の代では米作りはできないとのこと。農業機械もすべて廃棄すると言われました。
このお宅ではおばあちゃんが津波で亡くなっています。立派だった家は津波被害で半壊に近い状態でした。避難中、3回も家には泥棒が入っています。もかかわらず、私達ボランティアに笑顔で、これまでのことを説明してくれるご主人。私はいたたまれない気持ちになりました。
作業の方は、みんなの頑張りでほとんど終わり、16時にはセンターに戻りました。
明日(5/5)は東京からくるナインという団体に合流して活動します。
(写真は早朝、小高区で、水びたしのたんぼを撮ったもの。破壊した車が2台写っています。)
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